其の応募欄には中支部隊軍属(雇傭人)募集と有り、任地その他詳細な部隊名などは書かれて居らず、一抹の不安も有りましたが憧れの大陸に飛び出せる喜びの方が大きく、深く考える余裕など有りませんでした。
更に現在の勤め先と父母の承諾許可証明が必要との注意事項が記されて有りました。矢張り当時の戦時下と言えども、十七歳の年齢では未成年者扱いで有った様です。生まれて初めての名古屋までの一人旅でしたが、願書その他必要な書類の提出を済ませて来ました。
願書を提出五日後、指定された日でしたが名古屋第三師団司令部で学科試験、面接試験を済ませ陸軍病院での厳重な身体検査を終わらせ、採否の通知は後日と言う事になりました。学科試験、身体検査、面接試験等で二日間を費やし特に身体検査は厳重で、矢張り男子の徴兵検査と同様体の健康が第一の条件の様でした。
採用試験の後、一日千秋の思いで待つ事一ヶ月、待望の合格採用通知を受け取りました。此れで此の小さな町からの脱出が出来王道楽土の建設に微力ながらもお手伝いが出来る喜びと、見知らぬ他国への憧れが実現出来る喜びが相乗して心は天にも昇る思いと、途轍もない事を考えて居りました。
昭和十八年一月二十六日、私が故郷を出発する時が来ました。職場の皆さん、ご近所の皆さん、家族の姉妹の見送りを受け故郷の小さな駅頭に立ちました。
「元気でね。お国の為にね。体に気を付けてね。」
と、励ましの言葉を聞いていたと思いますが何か上の空で聞いていた様でした。
ホームで皆さんと別れて電車にのり其れまでは比較的平静でいた私が、電車が走り出した途端涙がどーっと頬を濡らし、果たして生きて帰れるのか、そして皆さんに再会出来るのかの不安が横切り、自ら志願して行くのに何たる事かと此の手記を書きながら五十年以上経った今でも当時の情景が鮮明な記憶として残っていました。
当時東洋一を誇る名古屋駅の長いプラットホームには各地から集合された皆さんと、家族送り、出しの部隊の見送りの係官で、ごった返していました。私達も現地から迎えに来た将校二名に引率され、勇躍故郷の名古屋駅を出発しました。
ホームには所狭しと並ぶ見送り部隊と軍楽部隊の見送る内に、出発した私は未だ十七歳の青春真っ只中の軍国の乙女でした。当時、昭和十八年には既に学徒出動命令が発令され、日本軍はシンガポールを陥落させジャワ島を占領して 軍部の意気盛んな時代でした。
然し、一般市民は衣料品も切符制、旅行も侭ならなくなり私の住んでいた町の省営バスも燃料の不足から木炭自動車に替わり、店先の商品も段々と品数も少なくなって来ました。
そして映画も戦時色が濃くなり、将軍と参謀と兵・ハワイ・マレー沖海戦などが上映され、「欲しがりません勝迄は」の合言葉に、目隠しされた馬の様に走り始めた時期でした。
私が赴任先である中国南京市に出発した昭和十八年初頭は、南方・北方戦線へ戦闘物資の補給、戦費の増大で生活が厳しくなる祖国を、危機一発で脱出した様な感じを戦後此の記録を整理しながら感じていました。
私を乗せた軍用列車は一路本州を南下、下関から関釜連絡船へと乗り継ぎました。当時の対馬海峡は未だ日本海軍が制海権を握っていましたので、連絡船の中も比較的穏やかな時間が過ぎていた様に思います。
其れでも万が一の機雷に依る事故に備え、船上での避難訓練が行われました。幾ら戦時下と言えども此れ程切羽詰まった感じはありませんでした。船内での食事も故郷では滅多にお目に掛かる事の出来ないカレーライスが出たのが、事の他鮮明な記憶として残っていました。
釜山に上陸して朝鮮半島を北上、京城を通り満州との国境を通過ブラインドの降ろされた車窓から垣間見た広大な黄土の満州平野は荒涼たる二月の赤茶色の大地でした。
生まれて初めて見る満州平野の大地は、ポッン・ポッンと土塀に囲まれた民家とポプラの木が三本・四本と点在している風景を私は飽きる事なく眺めていました。奉天を過ぎた辺りとある駅で配給された小さな自然冷凍されたリンゴがとても美味しかった事を良く覚えていました。
昼間町を通過する時は窓の開放は禁じられていましたが、垣間見た町の光景は田舎の寂寞とした風景を、故郷の町並みと比較して見る余裕も、此の時点では未だ持ち合わせていました。
若い者が任地に赴く希望もあってか、誰も寂しい顔はおくびにも出ていませんでした。然も軍用列車と言う特別列車でしたが、乗り合わせた人々の多くは同年輩の人が多く、修学旅行に出発する女学生の様に和気藹々とした車内でした。
何日も硬い板作りの椅子の軍用列車に揺られる旅、汽車の乗車料金は無料でしたが、駅弁売りが来る訳でもなく、お菓子の車内販売もなく二度と経験したくない旅でした。北京近くに着いた頃にやっと私達の任地の発表があり、行き先は「南京」である事が解かりました。
北京駅近くですれ違った移動中の軍用列車の兵隊さんに行き先を尋ねられ、
「南京です。」
と、得意になって答えると、
「あー南京か南京は汚い所だ。」
と、話してくれたのが、其の時中国に来て始めての忘れる事の出来ない南京に対する情報として頭の隅に残っていました。
一週間の軍用列車の旅も終わり、やっと赴任地の南京市に到着しました。だが軍用列車を降りたのは、南京市から見て対岸の甫口と言う町です。車中ずーと行動を共にして来た日赤の従軍看護婦のお二人とも此処甫口でお別れです。 彼女達はまだ奥地が任地の様でした。
まだ若い彼女達でしたがテキパキして明るい方々で、紺の従軍看護婦の制服がとても凛々しく流石大和撫子と感ずると共に彼女達の武運を祈り、握手を交わしてお別れしました。
夜遅くの到着と言う事もあって、其の町は暗闇でした。そして暗闇の揚子江を小さな連絡船で対岸の南京市に到着したのは、夜も可成過ぎていたと思います。此の連絡船上でも関釜連絡船上で経験した避難訓練を口頭でしたが実施されました。
更に此処でも鮫に対する注意事項を話がありました。中国の揚子江に鮫がいる話は聞いた事もなく、不思議な話しと聞いておりました。翌朝見る中国の町は何もかも珍しく、特に南京城内の所々に見える赤レンガ造りの建物は、正しく異国の風景其の物でした。
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