2 支那派遣軍総司令部


所在地中華民国江蘇省南京市。中国大陸に於ける大日本帝国陸軍の総司令部

北支那方面軍(北)第六方面軍(統)を統括していました。建物は旧中国外交部(外務省)の建物で、外部からは見えない高い塀で囲まれており、正面、裏門、横門があり、正門には十名程が勤務する衛兵所があり職員の出入りを厳重に検査を実施しておりました。

普段の出入りは衛兵所前の敬礼だけで許されておりましたが、物品の持ちには必ず持出書が必要で、例え酒保で購入した私物でも持出書なしでは没収になる規則で、憲兵も目を光らせる厳しい体制でした。裏門、横門は常時衛兵一名の勤務で、私達軍属は軍属証の提示だけで良かったのですが、物品の持ち出しには正門を通らないと出入りは出来ませんでした。

こんな厳しい司令部の出入りでしたが、時が経つにつれ顔馴染みの憲兵のお友達も出来、其の憲兵を利用させて貰ったり、戦況悪化が進んで来ると常時鉄帽を出務の途中は携帯が義務になりましたので、其の鉄帽の中に酒保で購入したお饅頭やお菓子を忍ばせて帰り、オヤツの時間を楽しんだものでした。「一つ、軍人は要領を本分とすべし。」と、軍律の厳しい中にもこんな楽しい思い出の一齣もありました。
 
横門は殆どが物品の納入が専門で、朝は野菜を積んだヤンチョを曳くクリーの行列が衛兵の点検を受け、右手にある炊事事務所の受付で物品の納入をしていました。此の炊事事務所の隣には准士官以下の食堂が並んでおり、食事の時間は此処が一番賑やかな処でした。
 
上は総司令官以下軍属の新任者まで、総数は私が着任した当時防諜上の理由で明確な人員は不明でしたが約千名の軍人軍属が勤務していた様です。裏門は朝夕将校の出務退出の時と総司令官の出務退出の時も此の裏門が利用されており、総司令官の場合には衛兵、ラッパ手のラッパ吹奏で登退庁されていました。

ラッパ手は各地の連隊から優秀な兵がトレードされて総司令部の勤務に就いたと思います。ラッパの吹奏の上手な事と、周りの建物への反響と相俟って勇壮な信号ラッパを聴くと血湧き肉踊る想いがしました。
 
此のラッパ手の吹く信号ラッパは素晴らしく、春夏秋冬季節毎に違った音色に聞こえていました。「起床ラッパ」から始まり「就寝ラッパ」まで総てが信号  ラッパのお世話になったのです。

「起床ラッパ」は一日が始まるぞ確り働け、「就寝ラッパ」は班長さんに叱られ可哀想だね、ゆっくりお休み。と語りかけている様に聞こえ、此の信号ラッパも最初の内は何の信号か解らなかった時もありましたが、時間の過ぎるに従い解る様になり楽しくもなりました。

建物は本館、別館、別棟、に別れており、別棟には准士官、下士官、兵食堂と建ち、炊事場、自動車班、下士官以下の理髪所がありました。別館の裏は広
い芝生の広場になっていて、周りには余り大きくはないが桜の木が植えてあり、春には故郷の風景の一部を思い出させてくれる場所でもあり、満開の桜の木の下で友と記念の写真を写したり、楽しいお喋りのひと時を過ごせる場所でもありました。
 
夏の夕べには木陰を利用して総司令部軍楽隊の演奏が披露され、遠い祖国を偲び一時の心の安らぎを味わいながら、友と夕暮れ迫る時間を過ごしていました。又此の庭で陸軍記念日の式典の時、畑総司令官から軍属の表彰式が行われ、司令部の中から三名の女子軍属が表彰されました。

私も其の中の一名に加えていただき、予期せぬ名誉に大感激した思い出がありました。健康優良児の無事故無欠勤で余り目立たず、平凡な勤務でしたのが幸いした事と思っています。副賞には国債を頂きましたが、現物は目にする事なく、手にする事なく終わりました。

其の夜表彰者三名が高級副官殿の執務室に呼ばれ、
「おめでとう。」
と、お褒めの言葉と今までの労をねぎらって下さいました。此の頃になりますと女子軍属の所帯も百五十名程の所帯になっておりましたから、妬まれはしないか不安もちょっぴりありました。此の女子軍属の表彰も此れが最初の最後となりました。
 
本館の周りには細長い形でしたが、大きな花壇が出来ていて薔薇の花が春から秋にかけて咲き誇り、心和む安らぎを与えてくれていました。ねむの木も可愛い花をつけて、「ネムの並木を仔馬に揺られて・・・」の意味合いが良く判る様な風景でした。これらの植物の手入れは専門職の軍属が現地の中国人を指導して何時も綺麗に刈り込んだ手入れをしていました。
 
本館建物の内部は、右側に副官部、隣が副官部主計室の事務室があり、此処が私の勤務していた処です。左側には経理部が事務室を設けていました。私の勤務も三年のも長い時間でしたが、他の部室には行く機会を得ず、等々終戦を迎えて仕舞いました。二階、三階は、総司令官室、参謀長室、参謀部、暗号班、文字通り私にとっては雲上の存在でした。
 
四階建ての本館建物の正面玄関には憲兵の立哨があり、関係者以外は立ち入り禁止の表示があちらこちらに立っておりました。私も直接関係のない部署には行った事はありませんでした。地下には電話交換室と打字室(タイプライター室)があり、此処には女子軍属が勤務していました。

当時タイピストは打字手と呼ばれ、大きな和文タイプライターがずらりと並び、ガッチン、カッチン、ガチャ、ガチャと一日中賑やかな処でした。そして此処では作戦指令や、大本営其の他中央とのやり取りの極秘文書の作成も多かった様です。

私の所属していた副官部主計室の編成は次の通りでした。

           経  理  係  (本館)
           庶  務  係  (本館)
           陣 営 具 係  (本館)-(別館)
           被  服  係  (本館)-(倉庫)
副官部主計室  文 房 具 係  (本館)-(倉庫)
           酒  保  係  (本館)-(地下菓子工場)
           高等官食堂    (本館)
           准士官食堂    (別棟)
           下士官食堂    (別棟)
           高等官理髪室   (本館)
           下士官理髪室   (別棟)

昭和十八年二月二十八日付けで、正式に支那派遣軍総司令部軍属に発令されて第千六百一号の陸軍軍属証を頂きました。(今でも私の青春の証として保管しています。写真右)其の当時の身分は傭人(給仕)となっていました。

当時の軍属の募集要項を改めて見ると、私の年齢では給仕の仕事しかありませんでした。採用された嬉しさに募集要項の内容まで確認する余裕がなかったのです。此の件に付いては私からの質問もしませんでしたし、司令部からの説明もありませんでした。そして三年間の私の勤務部署は、

高等官食堂勤務。  武官高等官以上、文官勅任官以上の高官の食堂での給仕でした。私は同じ給仕でも事務方の使い走りの給仕と思っておりました。当時の身分は陸軍軍属傭人(給仕)でした。

酒保勤務。     当時は男子軍属の勤務でしたが、戦局の拡大により男子軍属の不足を女子軍属で補充すると言う事で、女子軍属が勤務する事になりました。私達女子軍属の勤務が始めてでした。
昭和十九年一月、身分の変更があり、傭人(筆生)になり、軍属履歴が書き換えられました。

副官部主計室勤務。 待望の主計室勤務になりました。 正式勤務先は副官部主計室陣営具係でした。身分は傭人(筆生)の儘です。

昭和二十年八月二十日、終戦の五日後、陸軍軍属雇員の身分変更の発令がありました。此の身分変更の辞令は帰国後、村役場を経由して受け取りました。尚私が総司令部に勤務してから終戦で南京を離れる迄の身分の変更、其の他、勤務に関する陸軍軍属の経歴は厚生省引揚援護局に記録が保管されています。           


総司令部副官部より出した最初の便り
差出人の住所の記入できない軍事郵便



支那派遣軍総司令部および関連建物所在図
(クリックすると拡大されます)







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