3 菊花寮・女子宿舎

高級副官・志波大佐のご栄転のさい、菊花寮の庭で撮影した、女子軍属全員によるお別れの記念写真

私が着任した昭和十八年二月初旬、寒い冬の日でした。宿舎は赤煉瓦の二階建ての建物で、総司令部は旧外交部(中国外務省)が使用していた建物を接収して使用していました関係上、女子軍属の宿舎も其れに付随した建物ではないかと思います。

総司令部の正門を出ますと道路の向かい側に偕行社、南京文庫、報道班等が並び、其の角を曲がった所に女子軍属の宿舎が建っておりました。出務の時は隊列を組んでの行動で、七分か八分程の距離でした。私達が出務の折、中国服(便衣服)の憲兵が見え隠れに後から付いて護衛していたそうでした。

そんな事露知らず聞えよがしに、
「変な中国人だ。」
等散々悪口を言っていましたが、当の憲兵は任務の関係上怒る事も出来ず相当憤慨していたと思います。此の事は後日日本に帰って総司令部関係の集まりがあった時に始めて耳にし、其の事実に改めて感謝しました。
 
女子宿舎は正面玄関を入ると広いフロアーになっており、其処には黒光りしたグランドピアノが置いてありました。私が着任した時は既に勤務に着いておられた先輩方が二十五名程おられ、一部屋四名の入室でしたが、其の中に同期の人が一人同室でした。

部屋には余り大きくない観音開きのガラス窓が二箇所付いていました。其のガラス窓には爆風避けのテープがクロスに張ってありました。夜になると始めて見る「やもり」が赤いお腹を見せてガラス窓に張り付いているのを見て吃驚したのも此の頃でした。其の窓際には小型の座机が置かれ、敗戦で帰国するまでお世話になりました。
 
部屋の片隅には棚が四段作られており、私物の日用品は総て決められた棚に整理しておかれ、今までずぼらで母任せにしていた私には良い修行の場になりました。蒲団は今迄に見た事のない敷布団で中身は綿でなく藁でした。

大きさは幅七十センチ、厚さ十五センチ程、そして其の上に毛布を敷き、掛け毛布は左右と下の三隅を敷き布団の下に挟み込み、丁度藁蒲団と毛布の寝袋の様なものでした。冬も比較的暖かく慣れて来ると思いの他寝心地の良いものでした。

朝起きるときちんと敷き毛布と掛け毛布をたたみ、足許に積み重ね其の上に枕を揃えて置きました。其の後間もなく普通の敷布団と掛け布団になりました。矢張り女子と言う事の心使いであった様です。

起床後、洗面を済ませ従軍服に着替え、女子宿舎前の広場に整列して先輩の班長の点呼を受け、女子軍属の総責任者の婦長の訓示を聞いた後、隊列を整え総司令部に出務しておりました。

食事は私の着任当時は女子軍属の人員も少なく、総司令部の中にある女子軍属専用の食堂で、三食賄い付きで頂いておりました。後日女子軍属の総人数も百五十名の所帯に増員され、自分達で炊事当番を定め食事の準備をする事になりました。其の当時は此れから襲い掛かって来る難行苦行も知らずに・・・、のんびりした食事風景でした。
 
当時私達の居住していた宿舎は赤煉瓦の二階建ての、異国風の綺麗な宿舎で、菊花寮と呼ばれていました。寮長は高級副官の大佐殿で当時陸軍の最高指導者の東条大将に面影が似ておられました。

其の高級副官殿を寮長と言う事で些かの誇りを感じた物で、私は間違いなく戦時下の「忠君愛国・滅私奉公」の精神を叩き込まれた少女で、満十六歳の年頭親元を遠く離れ中国の南京市で軍務に就くとは、私自身夢にも思わなかった事です。
 
母に愛しい我が子を戦地に送り出す心境を尋ねて見たかったが、五十数年経った現在では不可能な事ですが、多分こんな事を考えていたのではと、私なりに考えておりました。
「こんな飛んでいる子がいて名誉な事だ。」
と、考えていたか今は知る由もありません。

戦後、
「召集令状で泣く泣く入隊する人も、自ら志願する馬鹿もある。」
の言葉を聞いた事もありましたが、私は取りも直さず馬鹿の部類だったかも知れません。勤務の終った冬の夜長、同室の友と語り合った後ふと古里の母の事を思い出して、多分こんな事を考えていたのではと、今となっては母に尋ねて見たくも出来ない話ですが、母の心底には、
「何処に行っても良いから無事に帰ってくれれば・・・。」
ではなかったでしょうか。私の此の馬鹿げた行為が戦中の我が家の苦しい家計に大きく貢献したのも事実でした。
 
そして約三年間の在中、私の青春の日々は女子宿舎を基に喜怒哀楽を織り交ぜて過ごしました。日本の内地での空襲の恐怖も知らず、食糧の不足の空腹、日常生活の物資のままならない事も知らずに過ごす事が出来たとすれば、少々の規則や些細な事で愚痴をこぼすなど、とんでもない事で罰当たりな事でした。

ましてや勤務上の不服など不謹慎の極みでした。こんな事を考えると私の南京での記録を書きたいと思いながらも、些かの気後れも手伝って今日まで書く事が出来ませんでした。

戦争の記録、手記となると「悪戦苦闘の話。」「生死をかけた戦物語。」になるのですが、私は苦しい祖国を逃れ、此の南京に疎開していた様で気が引ける思いでした。楽しい思い出の一つにこんな事もありました。

女子宿舎と高級副官殿の官舎の間にある防空壕の上で、仲良しの友と故郷を偲んで夕焼け小焼けの 童謡を歌っていたのを、高級副官殿の耳に止まり後日茶会の折、加藤と水野と二人でとリクエストされ、嬉しかったり恥かしかったりで、今でも忘れ得ぬ記憶の一つです。
 
戦後、先に帰国された其の友に会いたくて、岐阜県まで尋ねて見ましたがお会いする事が出来ませんでした。今でもお会いしたい人の一人です。

休日のハイキング

玄武湖畔にて、初めて見る玄武湖は大きく感じました


玄武湖畔にて


軍属章を誇らしげに、友と


バックが紫金山







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