5 修養室


私が此処に着任した当時の女子宿舎は、二階建ての赤煉瓦で建築された建物で二棟並んでいました。其の内の一棟に修養室がありました。部屋は純日本式の部屋で、畳、襖、床の間等で内装されてあり、此の戦時下を良くも此れだけの資材が揃えられたものと感心していました。 

此の部屋で茶道、華道、書道の手習いから、各種の修養の場として使用しておりました。お裁縫の講習を受けたのも此の修養室でした。幸いにも私の長姉、次姉が裁縫の師匠でしたので、此処では師匠の助手が務めました。お茶とお花のお師匠さんは不惑を半ば過ぎた民間の女性で、和服を召された物静かな方でした。

一週間に一度、夜二時間程のお稽古でしたが、若い私達には二時間の正座は苦痛でした。終る頃には足が痺れて立てない位になって仕舞いました。同室の友は足が痺れて立てない程で、暫く座り込んでいたのを覚えています。

家にいる頃は座る時には足を伸ばして座る、歩けばドシドシと歩くお行儀は 最低の女の子でしたから、例え二時間の短時間と言え私に取っては苦痛のお稽古でした。

当時既に茶道、華道の手解きを習得された先輩方もおられ、優雅に其のお手前を披露されているのを羨ましく眺めておりました。私も着物を着て落ち着いたお手前の習得が出来るのではと思い、母にお手紙でお願いして見ました。

母も我子可愛さでしょう戦時下の輸送機関を煩わし、見た事もない着物一式を送ってくれました。日本にいた時には着物など手にした事もなかったので、多分親戚にお願いして手に入れた物と思います。戦後帰国してからも私も聞きもせず、母も語らず終いでした。私はますのさん(母)に会って聞いて見たい事の一つです。

そんな事で着物でも着れば落ち着いてお稽古も出来ると思っておりましたが、矢張り苦痛は付いて廻り何とかしてお稽古をサボル事しか考えない不届き者でした。月謝も要らず茶道、華道教室でしたのでこんな有難い事はなかったのです。

書道は日赤の従軍看護婦の婦長が受け持っておられました。書道は小学校の時代からの得意科目で、小学校の時代には郡部の書道大会で何時も優勝か金賞の栄誉に輝く科目でした。

処が教授して頂く書体は草書体の和歌をお手本にしたものでした。ひらがなの草書は読むのも書くのも難しく、小学校の書道の時間に教えてもらった程度では役に立ちませんでした。
 










6 グランドピアノの思い


南京に赴任して女子宿舎に入って一番初め目に付いたのが、入り口玄関脇ホールに置いてあったグランドピアノでした。私の知る限りでは此の様なピアノは故郷と、其の周辺郡部の周辺の学校にも無かった様な立派なピアノでした。  

其の時は此のピアノを弾く事など考えておりませんでした。例え、
「どうぞご自由に。」
と言われてもおいそれと弾ける様なピアノではありませんでした。時折先輩が優雅に演奏しているのを羨ましく聞いておりました。
 
私も其の先輩の手解きで、宵待草、浜千鳥、荒城の月等の曲が楽譜を見ながらですが弾ける様になりました。弾ける様になると嬉しくて、時間を拵えては ピ アノの前に据わる様になりました。お陰で七十歳になった今でも電子オルガンですが、当時を偲びながら覚えた同じ曲を弾いて楽しんでおります。



仲間たちと











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