10 陸軍病院と診療所

私は気候風土が日本と違う中国大陸で、三年有余陸軍病院、診療所のお世話にならず、至極健康優良児で勤務する事が出来ました。私の兄は徴兵検査の結果は第一乙でしたが、私が若し徴兵検査を受けたなら背丈を除けば、甲種合格間違いないと自負しておりました。

私の知る限りの先輩、同輩、後輩は入院の憂き目に合い、南京虫、しらみと仲良く練兵休をしていました。大の仲良しの友も盲腸で入院して仕舞いました。

私も出務に支障のない限り知り合いになった炊事係からお見舞い用のご馳走を調達して酒保で買ったお菓子と共に、外出時には必ず携行する鉄兜の中に忍ばせてお見舞いに出掛けたものでした。

友は夕べも南京虫の襲撃を受けたと傷口を見せながら、
「神経を使って大変、早く退院したい。」
と、言うので、
「私も早く帰って欲しい、今しばらくの辛抱、辛抱。」
と、慰めたものでした。

幸いにも女子宿舎には南京虫の来襲はなく、幸いな事に私は実物の南京虫は見ず終いで終りました。
陸軍病院に行って見ると、以外にも皆さん元気で和やかな雰囲気での練兵休を過ごしていました。内心私も、
「一度此の雰囲気を経験して見たい、そうすれば皆が見舞いに来てくれる。」
と、とんでもない事を考えた事がありました。

又、日本脳炎の患者も出た様でした。部課が違うので挨拶程度のお付き合いの友でしたが、日本脳炎に罹災して入院されましたが、高度な医療技術のお陰で無事退院されました。大変美人な方でした。

私が結婚して横浜に来た折、復員名簿で住所が近くであるのを知り、お尋ねした事がありました。其の後病魔の再発があったのか或は後遺症があったのか、暫くして消息が解らなくなりました。
 
健康には自信があり南京豚と異名をとった私も、昼食のお菜に出た魚の小骨が喉に刺さって仕舞いました。水を飲んでもご飯を丸飲みにしても、友に背中を叩いて貰ってもびくともしません。結局診療所の軍医殿のお手を煩わす事になりました。

喉の奥の取り難い箇所の様でお手数をかけて仕舞いました。軍医殿もご機嫌斜めで、
「以後気お付ける様に。」
と、叱られて仕舞いました。私も口を開けて骨を取って貰う間の苦しかった事、小骨のある魚を食べる時の不注意が招いた事故でしたが、以後骨のある魚は買ってまで食べたくありません。
 
私が着任後、春秋年に二回行われる定期健康診断、私達を病魔から守ってくれる行事でしたが、南京豚と異名を取った私には頭痛の種でした。第一は体重測定、何しろ祖国では食糧事情も悪化の一途を辿りつつある時、此方では毎日栄養たっぷりの食事を頂き、大好きなお菓子やお饅頭も好きな時に好きなだけ手に入る状態でしたので、背丈五尺足らず(百五十a)、体重十二貫(四十八`)顔は真円に近い健康優良児でした。

人様より体重の減量を試み、静かに計量器に上る工夫を試みましたが、こんな減量方法では何の役にもたちませんでした。敗戦後食糧事情の悪い日本に帰ってから体重も減り稍スマートになりましたが、自然のエステは効果抜群でした。 

私が第二回目に診療所のお世話になったのが大きな汗疹よりが出来た時でした。南京の夏は物凄く暑い所です。日本では経験した事のない暑さでした。着任した最初の年は緊張の連続でしたので、暑い事は事実でしたが緊張感が幾らか 解消してくれていた様でしたが、勤務に慣れた二年目は体に応えて着ました。

日本より食糧事情が抜群に良い勤務地で、体重十二貫目(四十八`)まで太った健康優良児には暑さも一段ときつくなって来ました。そして真円の顔に五つ、六つと大きな汗疹よりが出来て仕舞いました。
 
悲劇でした。ショクでした。そして叉々診療所のお世話になって仕舞い、飲み薬と塗り薬を頂いて来ました。悪性?の吹き出物と誤解されそうな大きな汗疹よりで、私も生涯を通じてこんな経験は有りません。多分日本であればお勤めも休んでいたと思います。

そして、こんな汗疹よりの経験も此の夏が最後になりました。暑い南京の夏  流石大陸の夏と驚いていました。総司令部の庭にはネムの木がピンクと白の華麗な花を付け、夾竹桃とヒマワリの花が暑さに負けじと、暑い南京の大空に向かって咲き誇っていました。


南京の夏空に咲いた向日葵














11 午睡

大日本帝国陸軍支那派遣軍総司令部。時、昭和十八年の夏、戦争の真只中、珍しい命令が出ました。
「司令部総員、昼の食事後午睡の時間を午後三時まで実行せよ。」
平和の時代であれば納得も出来ますが、戦時下の外地勤務で此の様な命令が出るとは夢にも考えておりませんでした。若い私達は大歓迎で貪る様に午後三時迄午睡の時間を楽しんでおりました。
 
最初の内は前線の将兵の事を考えれば此の様な時間があって良いのか疑問に思っておりました。日が経つにつれ此の午睡の時間が楽しみになり、正午近くになると午睡の時間が待ち遠しくなって来ました。午睡が終ると今度は現在の 中高生の様なクラブ活動の時間になりました。
 
弓道、テニス、卓球の内一種目を行う事が義務付けられましたが、運動神経の鈍い私は、テニス、卓球等を行うと球が何処に飛んで行くか解りません。幸い弓道は私の父が元気な頃生家の裏山に射場があり、父のお手伝いを仰せつかっていましたので、礼儀作法も見様見真似で心得ていましたので、午睡の後には弓道で汗を流しておりました。

弓道の教官は私と同姓と言う事もあり、部員も少なかったせいもあり懇切丁寧な指導を受け、お陰で矢も眞直に飛んで張り合いのある活動が出来ました。 今一つ欲を言えば和服に袴、襷掛け正式なスタイルで稽古が出来たらと、今でも思い出される青春真只中の乙女の懐かしい思い出です。尚、当時は何か武術に秀でていると功績班に登録され賞の対象になる時代でした。
 

弓道の教官・加藤副官
戦時下私の経験した夏期の優雅な勤務も此の一年だけ、其の後の夏からは実行されませんでした。次の年も続いていたならば弓道の腕前は父を凌ぐ腕前になっていたと思います。敗戦の祖国に帰ってからもこれこれしかじかと胸を張って話しの出来る事ではありませんが、矢張り記録の一頁に加えて置きたい楽しい思い出話です。まだまだ空襲も敵襲もない平和な戦地でした。








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