12 主計室勤務

高等官食堂、酒保勤務と続き三回目の配置換えで漸く念願の主計室勤務になりました。軍属に採用され総司令部に来て雅か食堂の給仕をするなど夢にも考えていませんでした。だが今となると過去に経験した勤務先が貴重な思い出となりました。

私が今度勤務する主計室とは、正式には、支那派遣軍総司令部副官部主計室。副官部主計室略式名は「五号ノは」でした。総司令部の正面玄関を入り突き当たりが高等官食堂ですが、直ぐ右に曲がると廊下を挟んで右側が高級副官殿と其の部下及び軍属職員が勤務していました。
 
其の反対側の大きな部屋が私の勤務した副官部主計室です。事務室の中央に 主計少佐で責任者の大きな机が座り、更に大尉、古参の中尉と女子軍属の机が並び主計室の内部全体が見渡せる位置を占めています。

内部は一番奥から経理係で、主計将校以下経理のベテランが一日中ペンとソロバンを使っての帳簿記入等、私達の給料の計算から総司令部内部の総ての経費の収支を扱っていました。珠算も一、二級、簿記も有資格者のベテラン揃いの職員でした。
 
計算も暗算で加算して後にソロバンに入れると聞いていました。流石総司令部は人材の選定には日本全国からの人選ですから、さぞかし優秀な人材の選定が出来たと思います。此の人達と一緒に仕事が出来るのかとこんな事も考えて見ましたが、とても私の性格では出来ない勤務と傍目で冷ややかにに眺める事にしました。幾ら軍律の厳しい勤務と言えども比較的自由気侭に近い勤務をして来た私には矢張り今の勤務が一番と考えておりました。

総責任者の机の前には人事と庶務の事務係の机が並び、私達の机も中央から稍離れて、陣営具係。被服係。営繕係。文房具係。と並び、雇員の責任者がいて其の中に私達が配属されていました。

事務室の中に小さな部屋があり其処が当番室(湯沸し場)になっていてお茶、湯呑、薬缶、お盆そして電気コンロ等が揃えてあり、お茶の給仕が出来る様になっていました。

然し此のコンロを使っての湯沸しは余りにも時間が掛かり使用されていませんでした。
「師団の編成は三分。」
何事にも迅速を旨とする軍隊です。お湯は地下室のボイラー室で蒸気を使って一気に沸かして使用していました。

湯呑は白地に緑の線の入った物で、将校級は個人用の湯呑が有り余り人数も多くありませんでしたので、個人用の湯飲の持ち主は直に覚えられました。そして、
「有難う。」
と、言って頂けるのは下士官、軍属だけ、矢張り将校は威厳を保つ為か何となく近寄り難い存在でした。
 
日本では一級建築士の肩書きを持った人がおりましたが、此処では一軍属で、軍隊の悲哀を舐めた人もおりましたが、幸いにも私達は未成年の女の子と言う事で、余りお小言を頂く事もありませんでした。寧ろ私達女子軍属は人事の下士官と其の上官に
「日本に帰りたい、帰して下さい。」
と、だだをこねたものです。 

でも流石下士官、下級士官と言えども支那派遣軍の総元締めに勤務している関係か、内地の情報も薄々として耳にされていたと思いますが、其の度に、
「日本の事情も厳しい、此処の方が楽だ。皆も頑張っている、お前に出来ない事はないだろう。前線の兵の事を考えて頑張れ。」
と、半分脅かされ、半分慰められてついつい其の気になって軍務に励んだものです。

此の愚痴を聞く係りの下士官は大変だったと思います。
「女子と小人は養い難し。」
戦後、東京で開催された南京会の会合で、当時の係りであった中尉殿にお会いした折、当時の私達の我侭を時間の経つのも忘れて話されていました。
 
主計室勤務になった頃は、身分も給仕から筆生に昇格していましたが此処でも一番最下位でしたので上官の靴磨き、洗濯の仕事も廻って来ました。靴磨きでも現在の様に塗れば艶の出る靴墨などありません。付けて歯磨き、磨いては付けるの繰り返しで、磨き上げると長靴はピカピカになっていました。

此の長靴の皮も上等の牛革で軍隊には何でもあると言う事を知りました。当時日本では革靴と言うと豚皮でした。此の様な時代から三十余年最近では女性の間ではブーツが流行していました。

私も海外駐在勤務の主殿に同伴した折、フランスで購入したブーツも今でも健在です。拍車こそ付いていませんが当時の将校用の長靴の皮より上等なブーツです。時折此のブーツを磨きながら過去った昔の「靴磨き勤務」を思い出しています。
 
洗濯は屋外の洗濯場で上官の剣道着、柔道着の洗濯です。靴下位までの洗濯はしたと思いますが、流石下着まではしませんでした。三、四人で楽しい此の  時間を上官の悪口、格好良い優しい上官の噂話等で時間に制限なしのひと時を自由時間として楽しんでいました。

庭を彩っている薔薇が春から秋にかけて大きな見事な花を次々と咲かせていました。時折二、三本頂いて来て事務室の女子軍属の机の上を飾っていました。こんな楽しみ方があるので此処での勤務が辛いと思った事、愚痴を言う事も此の頃はありませんでした。身の程を弁え、悟りを開いた訳ではありませんが、寧ろ事務室の中の固苦しい雰囲気から逃れ得た開放感の方が大きかったと思います。

お茶当番、雑用、洗濯、机の上の仕事少々こんな日常の繰り返しの中で、時折陣営具倉庫の在庫調べに出掛ける事があります。倉庫は司令部を出て徒歩約十分程の所にありまが、女子単独の外出は禁じられておりましたので二、三人で出掛けます。

敷地の中央は広場になっており、片側に陣営具倉庫、被服倉庫と並んでいました。陣営具の倉庫は司令部内で使用する剣道具、食器類、掃除用具、その他細々した物品が棚に整理されて並んでいます。主計室から捺印された伝票を受領して此処で係りから物品を受け取る様になっています。此処の品物の員数が帳簿の上と違いが出るとそれは許されません。だが在庫調べも然したる違いも出ず問題もありませんでした。これは上官からの私達への息抜きのプレゼントと思っていました。

被服倉庫は陣営具倉庫の隣にあり、将校、兵の被服の修理をミシンを使って行われています。此の道の達人が軍属の身分で、司令部内約千人の繕い物を行っていました。色々と多忙な日々かと想像していましたが、実態は垣間見ただけの私には理解する事は出来ませんでした。

日本から着て来たオーバーを此処の洋服屋さんに従軍服と同じに仕立て直しをしてもらいました。本式な男仕立てで着心地の良い従軍服の上着でした。そして此の従軍服を着て勤務に付いておりましたが、一度も注意やお小言えお頂いた事もありませんでした。

厳しい筈の軍律の中で私物の従軍服を仕立てる時間のあった事、又それを堂々と着て勤務が出来たのは不思議な思いです。無論仕立て代金の支払いも、特別なお礼もした記憶もありません。此処に勤務の将校や軍属雇員の軍服は私物ですから、女子軍属の中に一人位私物の従軍服を着て勤務していても、余り気にも止められなかったかも知れません。

此の倉庫に自転車が二、三台置いてありました。多分倉庫と司令部の間の連絡用に置いてあった物と思います。私は運動神経が鈍感でしたので等々自転車乗りには兆戦しませんでしたが、お友達は此処で自転車に乗れる様になりました。

こんな楽しみ方をしていて上官が来たらどうし様などの心配は一向に考えた事はありませんでした。本務以外の楽しみ方(職務をさぼる事)を満喫していたのは矢張り気楽な年相応な悪戯盛りの女の子の様でした。

主計室の中に消耗品倉庫もありました。司令部の裏門のすぐ前にあり、道路を挟んだ反対側ですから、多分身分証明の提示だけで良かったと思います。
「あそこの倉庫」
と、衛兵に申告するだけで解る位置でしたが、総司令部の敷地から一歩外にでて一般市内道路を通行する事になるので、警備は厳重でした。
「総司令部の敷地から一歩外に出たら敵地と思え。」
と、教育されていました。
 
余り広くない倉庫で言うなれば田舎の小学校の前で、お爺さんとお婆さんが商っている文房具店の様な感じです。ノート、鉛筆、封筒、インク、藁半紙。等が保管されていました。必要な文房具此の頃筆記用具はペンとインクが主流で、これらの消耗品も私達が補充する担当する役務範囲でした。

良く此処に物品の受領に来ましたが、悪戯して時間を費やす所ではありませんでした。用事を済ませて事務室に戻ると、謄写版の仕事がありました。毎日あったり、二日に一度であったりでした。各事務室には必ず一台の謄写版が置いてあり、謄写版印刷は事務室の最先端の文房具の一つでした。

今のワープロ、パソコンの時代から振り返ると、手を汚し、顔を黒くして謄写作業をした当時が、懐かしく思い出される事務の仕事でした。
 
升目の入った蝋引きの美濃半紙大の原紙に、鉄筆を使って文字を書き謄写機を使っての印刷です。二人掛かりで一人はローラーを、一人は紙を捲り、作業が終ると手はインクが着いて仕舞い、油性の為石鹸を使っても落ちず難儀したものでした。

毎日発行される副官部の広報も謄写版印刷でしたが、此の文字が楷書体の綺麗な文字でした。此の文字は小学校の国語の教科書に出てくる文字と同じで、大きい小さいがなく最初から最後まで揃っていました。其の内容は忘れて仕舞いましたが、其の文字の美しかったのは五十年経った今でも鮮明に覚えております。
 
こんな筆の達人が司令部の副官部庶務室に軍属として勤務されていたのです。私も是非此の様な文字が書けます様にと時間を作って練習していました。其の頃の私の下手な文字を証明する一枚の軍事郵便のハガキが我が家に保管されていました。私が総司令部に着任後母に始めて出したハガキで、機密保持の為差出人の住所の書けない軍事郵便のハガキでした。今眺めて懐かしくもあり、恥ずかしくもある証拠のハガキでした。

総司令部と言う最高の司令部に勤務していると言っても、一女子軍属の身分では前線の戦況など知る由もありません。身近に勤務していつ男子軍属が現地 召集の形で前線に出動する様になって始めて我が身に感じ始める具合でした。 昭和二十年初頭になると重慶作戦、桂林作戦などで前線の雲行きも怪しくなり、兵力の増強を強いられる様になって来た時代でした。

女子軍属も千人針の腹巻の製作に約二百名と総司令部以外の陸軍病院の従軍看護婦、民間の女性達もして動員して作り上げ、送り出していました。父母兄弟にも会えず前線に出動する彼達の心情を思うと胸が熱くなる思いでした。

櫛の歯の抜ける様にいなくなった男子軍属の代わりに女子軍属が勤務する様になり、高級将校の当番にも女子軍属が代わって当たる様になったのも此の頃からでした。
 
皆戦勝を信じ、忠君愛国、滅私奉公の精神で空席になった事務室の穴埋めを担当していました。此の頃、昭和二十年の六月頃軍の上層部には日本の敗戦も感じていた様ですが、私達下層部の者は、
「支那派遣軍総司令部未だ健在なり。」
の気分でした。
 
男子軍属の現地召集で手薄になった暗号班の使役で、印刷所にお手伝いに狩出されたのも此の頃でした。数字の並んだ印刷物(乱数表暗号を解読する辞書)を製本出来る様に折り揃える作業でした。

他の部署からは交代の使役が出ましたが、私の部署は女子軍属の人員は少人数の為交代要員がおらず、私が一人で毎日使役に出ておりました。

此の主計室では私が一番の若年でした。従って毎日使役に出るのが悔しくて、等々人事の曹長殿に交代者を出してくれる様、怖いもの知らずの直訴に及びました。私が最年少であり扱いが良かったのか決まって、
「交代者が入院している。」
「お前ばかりではない、我慢しなさい。」
此の様な事で誤魔化されたり、慰められたり、脅かされたり、熟年の人事係の曹長殿には叶いませんでした。でも此の使役の期間も間もなく終わり、余り長い期間ではありませんでしたが忘れる事の出来ない勤務の一齣でした。


人事係の豊田曹長
忘れ得ない愉快な武人でした

功績班の加藤准尉
同郷ということでたいへんお世話になりました






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