13 畑閣下の栄転と送別の朝
昭和19年の陸軍記念日式典における畑総司令官、於総司令部広場
畑閣下のプロフィル 阿部信行内閣の陸軍大臣になった畑俊六は陸軍軍閥を嵩に内閣を意の侭に操縦した為、其の圧力によって内閣は崩壊して仕舞った。更に米内光政内閣の陸相に留任した畑は、日独伊三国同盟の締結を強硬に主張し、それが容れられなかった為、畑は単独辞任、米内内閣は倒れた。 畑は福島県出身で、陸軍大臣畑栄太郎の弟。陸軍士官学校第十二期で卒業し、日露戦争に従軍後、陸大を卒業。参謀本部員になり作戦関係の要職を歴任。歩兵監、第十四師団長、航空本部長、台湾軍司令官、昭和十二年教育総監を歴任陸軍大将に昇進した。日中戦争勃発に伴い、中支派遣軍司令官、阿部、米内内閣の陸軍大臣に就任。 辞任後、支那派遣軍総司令官に就任。昭和十九年元帥府の称号を授かり、再度教育総監になり、昭和二十年本土決戦の為第二総軍の司令官になった。敗戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受けたが、後釈放された昭和三十七年五月十日八十三歳で没した。 |
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