24 引揚日決定、そして荷物の準備

懐かしい祖国に帰還する為の引揚げ船に乗船する日が決定しました。逸る気持ちを落ち着けながら、最小限持ち帰りたい品物の整理を始めました。本来ならばどんな品物でも思い出の一杯詰まった物ばかりです。

引揚の為の一人宛たりの持ち帰りの重量制限が約五貫目(二十キロ)と制限されました。船の積載量の関係か一人でも多く乗船させる為か、こんな事を考えながら南京時代に写した記念写真類を衣類の中に隠し、出発時に支給された軍足、石鹸、軍事郵便貯金通帳、若干の私物の下着類等を制限重量の範囲で纏めました。

残った私物は祖国から私の我侭を聞き入れ送って貰った和服類、三年有余過ごして楽しかった思い出と一緒に此の中国大陸の片隅に置いて帰る事に覚悟を決めました。私達が諦めて廃棄処分にする品物は、庭に掘られてあった防空壕で相当な面積があったと思いますが、其の防空壕が荷物で一杯になりました。

乗船する時持込品の内容検査も、さぞかし厳しい事と覚悟していましたので、変な処で皆さんにご迷惑を掛けてはの気持ちが一杯でした。
 
其の時の私の引揚げスタイルは、陸軍将校用一種軍装の上下、ズボンの裾を  可成捲り上げ、上着の袖も折り曲げて辛うじて手の出る様にして着ていました。私の持ち物の中で唯一没収の対象になりそうな物でしたので、いっそ没収されるなら着て行こう、まさか着ているものまで脱げとは言うまいと考えていました。

約四ヶ月の捕虜生活の割には痩せる事もなく、未だ南京豚の異名は返上出来ない状態でした。と言う事は食糧事情もまあ〜まあ〜の状態だったと思います。残念ながら此の時の写真はありませんでしたが、想像するだけでも奇妙な格好だったと思います。
 
覚悟していた官憲の検査も引揚日を遡る事四日の間、毎日持ち物の検査があり此の検査も如何なる所存か判断に困りました。外部との接触がある訳でもなし、さりとて此処で法に触れる物を作る訳でもないのにと、些かの腹だたちさを覚えていました。だが一刻も早く祖国の土を踏みたいの一念で、有り難いの悔しいの感傷に耽っている暇はありませんでした。

此処で敗戦の日からを振り返って見ると、中国側の対応もかなり寛大であった事になります。帰国後諸々の記録を見ると、上層部では可成の交渉が行われていた事の様でした。昨日の敵は今日の友までは行きませんが、私なりに周囲の状況からの判断でした。










25 波止場での嫌な出来事


昭和二十年十二月二十九日、私達を祖国に運んでくれる輸送船を待つ波止場まで、隊列を組んで進みました。総軍女子軍属に変な事態の起こらぬ様念じながら、波止場近くにポツンと建つ四階建ての建物に収容されました。一抹の不安を感じながらの中で、総軍時代の男子軍属の皆さんともお会い出来、元気でおられた事を喜び合いました。

そして初めて此の建物の中で七、八人の中国側の係官に会いました。タイル張りの床の上に置かれた荷物の中に座り込み、何度も荷物の検査を繰り返されました。今迄いた収容所と言い、此処の検査と言い何回検査を行ったら気が済むのか不思議な神経の持ち主でした。此れだけ検査を繰り返しながら没収される事もありませんでした。勝者の余った時間の過ごし方の様にも見えました。
 
そして此の波止場で乗船の開始時間を待つ間に、忘れる事の出来ない当時の私としては国辱と思える事が起きました。私達の話し相手は二十五、六歳の女性の新聞記者でした。今風に言えばインタビューと言う事でしょう。色々と何か質問があり其の中にこんな事も聞かれた様におもいます。

「戦争に負けて日本に帰る心境は?」
こんな事も聞かれた様に思いますが、何を聞かれたのか何て答えたか何しろ 乗船する方に気が向いてそれどころではありませんでした。
 
そして私達の方からの質問になり、何方が質問されたか、どの様に質問されたか不明でしたが、多分こんな質問だと思いますが、
「私達日本に帰ったらどうなるでしょう。」
其の返事は、
「天皇陛下に聞いて下さい。」
と、返事が返って来ました。
 
私は驚きました。未だ天皇陛下は神様的存在で私達の手に届かぬ事です。戦争に負けた事、此れからの日本の変化の前触れを、此の女性記者は私達に告げる一発の爆弾として最後のお土産に呉れたものと思います。日本と中国との 国情、国の仕組みなど此の中国人には解る筈がありません。

此の手記を書きながら当時の女性記者がおられたら、日本に招待して戦争に負けて、日本の都市の三十%以上が廃墟と化し、特に広島、長崎は百年以上草木も生えない瓦礫の山となっているだろうと言われた日本が、全ての産業に於いても現在此の様に復興を遂げている。
 
天皇陛下に聞かずとも我々は此の様にアジアの盟主として、世界に冠たる 復興が出来た。と自慢して見せたいものです。五十数年過ぎた今でも当時呉淞鎮の波止場で経験した中国人女性新聞記者の私達に与えた侮辱的な言葉は忘れる事が出来ません。












26 輸送船に乗船

私達を祖国日本に運んでくれる輸送船に乗船する時が来ました。逸る気持ちを落ち着けながら順番にタラップを登り乗船する事が出来ました。此の輸送船は貨物船を改造した船で、激しかった戦争を生き抜いて来た老貨物船です。

何がともあれ此の輸送船のお陰で懐かしい祖国に帰る事が出来ると思うと、素晴らしい豪華客船のお迎えの様に見えました。万感迫る思いとは此の事でしょう。現在の二十歳前の少女には経験出来ない事だとおもいます。

「此の輸送船の船名が知りたくて、当時帰港した港、其の他参考になる事柄を朝日新聞社に紹介して見ましたが、当時は帰国船の数も多く等々船名まで特定する事が出来ませんでした。」

帰国された当時の女子軍属、男子軍属、一緒に勤務していた総司令部の職員、将校の皆さんの中にも残念ながら記憶のある方は存在しませんでした。今でも何とか此のお世話になった輸送船の船名が知りたく手ずるを頼ってお伺いしております。

私達を祖国に届けた後、東支那海の荒海の海底にお休みになっていると風の便りが届きました。

輸送船と言っても元々貨物船ですから客室などありません。貨物庫を何段にも棚を作り、俄か造りの客室で、収容所の二階作りの部屋と同じでした。然し此方の方は座った席が一人分の席で、荷物半分、人間半分のワンルームでした。

一人でも多く日本に連れて帰りたいの輸送船の苦肉の策でした。ぎっしりと 詰め込まれた家族連れ、男子軍人軍属、女子軍属従軍看護婦の皆さんが彼の収容所におられたのかと吃驚しました。此の引揚船に辿り着く迄の距離こそ違え奥地から、前線から大勢の同胞が、私と同じ様な心情で祖国に向かう事になりました。








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