27 別離の中国大陸

漸く中国大陸と決別の時が来ました。ドラこそ鳴りませんでしたが、私達を乗せた輸送船はゆっくりと呉淞の岸壁を離れました。南京での忘れる事の出来ない三年有余、そして祖国へ連れて帰ってくれる此の輸送船に乗る迄の四ヶ月の間、色々のドラマがありました。

泣いた事、笑った事、怒った事、様々な事が走馬燈の様に頭の中を駆け巡っていました。其の時の私の心情は懐かしかった事が七分、帰国後の生活の心配が三分位だったと思います。こんな比率の南京時代の勤務の状態でした。

行きは良い々帰りは怖いの旅、童謡の歌詞がふと脳裏を翳める時でした。ぎゅうぎゅう詰めのボロ貨物船も今は豪華客船より嬉しい恵みの輸送船でした。
 
紺碧の東支那海の彼方には間違いなく祖国日本が待っています。長い間ご 苦労様と両手を広げて私達の帰るのを・・・。そうです此の輸送船の行き着く所は間違いなく故郷です。父母兄弟姉妹の待つ故郷日本です。
「国敗れて山河あり。」
荒れ果てたと言はれても私の祖国です。此の引揚船に乗っている皆さんも口には出しませんが思いは私と同じ心情だったと思います。











28 嵐の東支那海

此の引揚船の旅は決して平穏な旅ではありませでした。私が一生に一度の海の上の経験になったと思います。それは筆舌に尽くせない過酷な船旅でした。東支那海そして玄界灘と続く海は大荒れに荒れていました。私達に最後の試練として、荒れ果てた祖国に帰ってもへこたれない様に訓練されている様でもありました。

船が右に傾くと全員が右に、左に傾けば左に止まり木でもあれば幾らか防ぐ事も出来たと思いますが、輸送船の中は船の揺れるに任せ私達には 如何し様もありませんでした。
 
そして既に船酔いの現象が彼方此方に始まって仕舞いました。洗面器を抱え、お腹の中の物を全部出して仕舞います。ゲーゲーの哀れな姿になって仕舞いました。女子は全員全滅でした。其の内、出る物がなくなると黄色い嫌な匂いのする水だけが出る様になり全員が死んだ様に横たわり、輸送船は大波に揉まれ、ギーギーと悲鳴を上げていました。
 
死闘の何時間が過ぎ幾らか波も静かになった様に感じられ、夜が明けて来た様でした。体の衰弱でとても船底の居住区からは確認出来ませんでした。東支那海は良く荒れると言う事は聞いていましたが、こんなに恐ろしい海とは想像もしていませんでした。本当にすざましい船旅でした。此れ以来、船旅と言う言葉は私には禁句となり二度と船の旅はしたくありません。
 
昭和二十年十二月三十一日の朝、私達を乗せた輸送船は懐かしい鹿児島湾内の加治木港の沖合いに停泊しました。夢にまで見た祖国です。船上から見た祖国の山河は綺麗でしたそしてとても嬉しく感じました。此れは経験した私達にしか与えて下さる何とも言えない心境ではないでしょうか。

荒れ狂う東支那海を無事に祖国に送り届けてくださった船員の皆さん本当に有難う御座いました。支那派遣軍総司令部副官部勤務・女子軍属加藤登美子只今日本に帰りました。そして生きて無事帰国出来ました。夢ではありません。  抓ってみたらホッペは痛かった。







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