29 初めて出会った米軍兵士

私達を乗せた輸送船は加治木港に着岸することが出来ない様で、此処で初めて米軍の兵士を見たのです。出発する時は鬼畜米英、撃ちてし止まんの掛け声で、帰って見たら米兵のお世話になって・・・。此処でやっと敗戦の現実と日本が占領されている事を改めて感じました。

米兵の操縦する上陸用舟艇に分乗して上陸して一歩踏みしめた大地。其の儘座り込んで大地に頬摺りしたい心境でした。私達に手を貸してくれた米兵、言葉は解りませんが、
「大丈夫か。」
「OKか。」
と、言った様でしたが・・・。恐ろしい赤毛の青い目の鬼畜米兵の先入観がありましたが、彼達は親切な優しい兵隊でした。

「ヘイヘイ。」
とか
「OK。」
と、言って、頭の天辺から首から背中まで白い「DDT」をポンプを使って吹き込んでくれました。

遥々と海原越えてひむがしの島の帰り来る同胞の群れ。
幾年月を送った異国の生活の苦しみも悲しみも八重潮の彼方に流し捨てて 故国の山々を仰ぐ。
故郷の山に向かいて言う事なし
              故郷の山は有難きかな。
山も海もほのぼのと陽に輝いて其処に浮かぶ。新しい春の息吹は此の人達の 足どりを軽くする。平和と建設に勤しむ母国の姿を瞼に抱いて今上陸第一歩。
願わくば此の人達に故郷の山河が優しい様に。

此の記事は昭和二十年十二月三十一日、朝日新聞社の記者が加治木港に上陸した私達を取材された折、写真撮影と共に、引揚げて来た私達の心情を心憎いまで表現されている文章を、写真と共に紹介して下さいました。掲載された日時は、昭和二十一年一月三日付けの朝日新聞でした。
 
聖戦と言われた戦いに敗れ、荒廃した祖国が私達をどの様な状態で受け入れてくれるのか、祖国がどの様になっているのか情報の乏しい当時では上陸第一歩まで不安が付き纏っていました。

当時、中国大陸には正規軍、大きな夢を抱き中国大陸に大きな花を咲かせた同胞、合わせて約二百万の同胞が居りました。そして此の大勢の同胞が懐かしい祖国に帰って来られました。其の同胞を一様に暖かい両手を差し伸べて迎え入れた祖国の皆さんに感謝しています。



引揚証明書

引揚者が貰った国債













30 引揚列車で故郷に向かう

鹿児島・加治木港に上陸した私達引揚者は上陸地にて引揚証明書の交付と、帰国の手続きを済ませ一時金二百円と古い毛布二枚の支給を祖国の係員から、
「ご苦労様。」
の労わりの言葉と一緒に受け取り、敗戦の祖国に戻り、始めて祖国の同胞からの暖かい言葉で胸が熱くなるのを感じていました。次に頂いたのが、
「薩摩芋の入った大きなお握り二個。」
お腹も空いていた事もあって美味しく頂ました。

後日知った事ですが此処で頂いた、「薩摩芋入りのお握り。」でも其の当時では貴重な食料でした。
「金二百円、古い毛布二枚、薩摩芋入りお握り二個。」
荒れ果てた日本の国情から考えますに大変な精一杯の厚遇でした。巷には家を焼かれ、親をなくした子供達が溢れていたのです。

此の段階では引き揚げて来た私達には知る由もありませんでした。私達を乗せた引揚列車は満員で通路も塞がれ、加治木駅を故郷に向かって走り出しました。窓から見える祖国の様子をと、進む列車の窓を食い入る様に見詰めていました。

九州地方も戦火の洗礼を受けていても、然程の事もなく此の分ならと安心も 束の間、北九州に近付くに連れて焼け野原が目立つ様になって来ました。段々其れが酷くなり広島の町を見た時、此の現状では無条件降伏も仕方がない事と、納得の一時を引揚列車の中で感じていました。
 
如何程の威力の爆弾であったのか、たった一発の爆弾の為にあの大きな広島の町が一瞬の内に消え去った様です。其の現状を目の辺りにした時つくづくと戦争の恐ろしさを肌に感じていました。鹿児島から始まった鉄路の沿線に見えた戦争の被害も、此処広島を通過した時私は、
「此処で犠牲になられた人々のお陰で私達の命は救われたのだ。此処に限らず長崎、沖縄も国内最大の地上戦になり、尊い犠牲になられた方々のお陰で私は今日あるのだ。」と・・・。

大阪に着きました。昭和二十一年一月二日に日付は変わっていました。主計室勤務の友とも此処でお別れです。焼け落ちた駅舎が何とも侘しい姿で私達を迎えてくれました。
「元気でね。」
「又、会いましょうね。」
握手を交わした友は降りて行きました。

次は私の名古屋、愈々故郷の駅です。東京に帰る友ともお別れの時が来ました。
「多分、東京の家は焼かれているだろう。」
と、力のない言葉に、
「行く所がなかったら連絡してネ。待っているからネ。」
「又、きっと合いましょうネ。」
と、約束を交わして別れました。
 
私を乗せた引揚列車が昭和二十一年一月二日朝、東洋一を誇った名古屋駅に滑り込みました。三年半前華やかな軍楽隊の見送りを受け元気で出発した時から比べ、敗残の身、将校用の軍服に手製のリックと、南京に赴任した時の借り物のトランク一つを手にホームに降り立った我が身が、何とも言い様のない侘しい気持ちになりました。一筋の涙は其の侘しさの為か、無事に帰国出来た喜びの為か、私の頬を濡らしましたが、其の涙も拭おうともせず駅舎の外に出ました。
 
迎えに来てくれる人とてなく、私が無事に帰国した事を知らせる手段も当時は皆無でした。降り立った名古屋駅の外は早朝にも拘らず、結構な人出で賑わっていました。訪れた平和の喜びを味わっている様でした。其の中で何と日本髪に和服の女性が目に付きました。

もう戦争もない、空襲もない、平和になって良かった良かったの現れでしょうが、我が身の格好と比較して私もうら若い乙女の端くれ、何とも此の違和感をどうする事も出来ませんでした。未だ外地には沢山の引揚を待つ同胞がいる。引揚の時が来るまで、私が経験した侘しい不安な生活を強いられている事を考えると腹だたちさを感じていました。
 
名古屋駅を出て愈々我が家に帰る為に乗る郊外電車の駅に向かいました。平時であれば市内電車を乗り継いで駅に行けるのですが、名古屋市内は戦災の被害で市内電車の復興迄は行き届いていない時期でしたから、徒歩に頼る手段しかありません。

将校用の軍服に手製のリック、片手にトランク、異様な姿の女の引揚者が目的の駅目指して歩き始めました。郊外電車の駅まで迷子にならないか、道は昔の侭か不安な気持ちが脳裏を掠めます。ありました電車の駅、昔のままの姿で私を待っていてくれました。

此処まで来ると暖かい母の手が、片方だけでも私の手を握って、
「よーかえりゃたのー。」
と、微笑んでいる様に感じました。あと一時間・・・懐かしい聞き覚えのある沿線の駅々の名前の一つ々が遠い昔の思い出が蘇って来ました。実際には三年余りでしたが、十年も二十年も昔の様に感じました。

そして私の家に帰る駅に着きました。昔の侭です。お陰さまで戦災の憂き目にも会わず依然として古ぼけた駅舎が私を迎えてくれました。見覚えのある町並みです。等々我が家に通じる道に立ちました。険しかった帰り道の感傷に耽る余裕などありません。
 
我が家に通ずる踏切を渡ると、関を切った様に手にしたトランクなど忘れたかの様に、道端に放り出して一目散に我が家に飛び込みました。
「おっかさん。」
と、大声で一言、後は何と挨拶をしたか全然覚えておりません。

母も私の言葉に何と返事をしてくれたのか・・・、無事我が家に辿り着けた安堵感から開放され気が付いたら、座敷に座り込んだ私の隣にトランクが置いてありました。

多分、弟が取りに行ってくれたと思います。幸な事に朝の早い時間でもあり、人に拾われる事がなかったと思います。こんな姿で我が家に辿り着いたのは、昭和二十一年一月二日の朝六時頃でした。此れで長い軍属生活も終る事が出来ました。    



苦楽を共にしたトランク





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送