4 女子宿舎の炊事当番

私が赴任した当時は女子軍属も二十五名程でしたが、年を追う毎に人員も増えて来ました。昭和十九年の年には宿舎も四棟に増え、百五十名程の大所帯に膨れ上がりました。

私の着任当時あった修養室も此の頃には別棟に移され、此処は食堂に改造されました。今迄の様に司令部の女子軍属専用の食堂では賄いきれなくなり、女子宿舎の一棟が炊事場と食堂に改造されて仕舞いました。

そして女子とあるので炊事の勉強にもなると言う事で、女子軍属全員が炊事 当番を決め担当する事に決まりました。其の頃の司令部の内部に限っては差し迫った危機感もなく、戦地と言えども平和其の物でした。だが大陸の一部の  前線では段々と戦局も怪しくなり、前線に出動する将兵も多くなり、其の代替えとして最低限度の女子軍属の採用で補充していた様です。
炊事事務所の前で

従って女子軍属の人員も大所帯になり、そんな影響もあってか宿舎の出入り口には、男子軍属の衛兵が立哨のため衛兵所に勤務する様になったのも此の頃からでした。
 
さて此の炊事当番に当たりますと点呼と司令部への出務は免除されますが、朝の四時に起床しなければなりません。此の時のいやーな気持ち本当に憂鬱になりました。

当番の前夜寝る前に枕を四つとん、とん、とん、とん、と、叩いて寝ると四時に起きる事が出来ると、まことしやかに囁かれた物でした。日本で家族と一緒に生活をしている時は、朝ご飯の支度が出来上がりお茶碗が食卓に並んでから母に起こされ、寝床も片付けもせず食卓に付く毎日でしたから、此の当番に当たった日は難行苦行でした。
 
調理は日本人の調理士が現地採用の中国人三人を使って調理していました。そして私達三名乃至四名が炊事に従事していました。大きなお釜が二つあり一つはご飯を炊き、もう一つでお味噌汁を調理していました。

当番には年長の先輩が二人付いてテキパキと働いていました。私達の様な年下の者は下働で、野菜を切ったり洗い物をしたり食卓に食器類を並べる仕事をしておりました。
 
此の難行苦行の炊事当番にも楽しい事もありました。此の日は点呼と司令部への出務が免除される事と、オヤツが出来る事でした。ご飯を炊いた後お釜の底に薄く付いているおこげにお醤油をまぶして味を付けたオヤツを、休憩時間に皆と戴く事でした。これがとても美味しく好評でした。

私も同室の友に持ち帰ってお裾分けしたものでした。そしてふと思い出されるのは日本の家族の事です。私は衣食の心配もなく勤務しておりますが、私の家族はどんな生活を送っているか、頭の片隅を駈け抜けて行く一時でした。
 
此れ位と思う一寸の悪戯が積もり積もって月末になると、お味噌とお醤油が足らなくなり先輩達も大変苦労したものでした。又中庭で夕食会が開かれ今夜の献立は茶飯と発表がありあした。私には初めての献立の名前でしたが、ご飯に御醤油で味付けしただけのご飯でした。

お惣菜に食材になる蓮根は玄武湖で取れたもの、お肉は当地名産の黒豚、お味噌お醤油は内地からの調達、野菜類は現地調達の物でした。其の他魚は揚子江で採れた名も知らぬ大きな魚の空揚げでした。モヤシと春菊のお味噌汁母の調理してくれた事のない珍しいお惣菜ばかりでした。三年間の従軍生活のお陰で好き嫌いのない人間に改造してくれました。
 
日本での食料不足を何処吹く風と此方では好き嫌いのない改造人間は美食を 堪能しておりました。お陰で丸々肥った十二貫目(約四十八`)の体重で定期検査の時、友達より少しでも体重が少なくなる様に計量器にそっと乗ったものでした。
 
此れは炊事当番とは関係ない事でしたが、印象に残った事柄を・・・。
中国の豚は黒、カラスは白、日本と反対の色をしていたのが一大発見でした。今は日本でも黒豚は飼育されていますが、当時豚は白に決まっていました。此の豚が朝早く町の中を散歩しているのが、なんとも異様な光景で此の豚を毎日食べているのかと思うと、何とも考えさせられる一齣でした。







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