7 高等官食堂


陸軍軍属募集と言う如何にも格式のある募集に、憧れと名誉心を抱いて応募した私は遥々と中国南京市にある支那派遣軍総司令部に軍属の一員として赴任して参り、其の総司令部で初めて勤務が高等官食堂でした。受領した軍属証の肩書きは、傭人・給仕と言う資格は武官で言う二等兵最下位の位です。
 
ショックでした。社会人の時には曲りなりにも社会法人の事務所に総合事務職として勤務しておりました。私の住んでいる町は、学校を卒業すると、七割方女工さんとして、町工場に働きに行ったものです。

私も変な処に見識ぶって女工さんになるのが嫌で事務員になったのです。余り物事に拘らない私ですが、此の時は一瞬目の前が真っ暗になり、物事を冷静に判断する事が出来なくなっていました。
 
今此の歳になってからですが、冷静に判断すると至極当然当たり前の事であり、年功序列の厳しい軍隊であれば当然の配属であったと思います。然も軍属募集項目に私の年齢で応募可能範囲は給仕職以外ありませんでした。

お陰様で他の部署に配属になった先輩同輩の皆さんよりも、私は普段お目に掛かれない若杉参謀(昭和天皇の弟君で作戦上の官職名)を始め、総司令官殿、総参謀長殿、総司令部の将官級、佐官クラスの上級将校の皆さんに朝昼晩とお目に掛かれる栄誉に浴する事が出来たのは、此処に勤務が出来たお陰と思っております。

だが其の当時周囲の状況を冷静に判断する余裕のない私は、
「とんでもない所に来て仕舞った、帰りたい、帰りたい。」
の、一念しかありませんでした。

時間の過ぎるに連れ周囲を観察して見ると、私より歳の上の打字手(タイピスト)の資格のある方も一緒の勤務でした。

一年の勤務と言う約束でしたので、其の時までは頑張ろうと慰め合って勤務に就こうと覚悟を決めたのも、比較的冷静に周囲の観察が出来る様になり、物事の判断が出来る様になってからの事でした。
 
高等官食堂は文字通り、武官高等官(将校以上)文官勅任官以上の食堂で、総司令部の正面玄関を進み突き当たりが此の食堂になっていました。天井は高く極彩色豊かな絵画が如何にも中国の高級な建物(中国旧外務省)の感じのする建物でした。

食堂のドアーを押して中に入ると、正面にテーブルが一列に並んでいます。此処が総司令官殿、主だった将官上級佐官の将校が使用するテーブルで、男子軍属が受け持っておりました。そして正面に対してT型に四列か五列のテーブルが並び、此処で新任の少尉殿迄が使用しておりました。此の席が私達新任の女子軍属が担当する勤務場所でした。
 
此の食堂で使用される将官級の食器は総て九谷か有田焼の蓋付きの高級品で、お膳も漆塗りの何時もピカピカに磨きの掛かった見事な物でした。私達の担当する方は少し格は下がりますが、間違いなく日本製の陶器の食器でした。遥か祖国を離れた此の地で支那派遣軍総司令部の名誉と気品を保つ為、此の様な処までの気配りがなされていた様でし。
 
料理を調理する場所は本館の外部にあり、出来上がった料理はリヤカーを使って運ばれて来ました。私が着任した頃、若杉参謀殿も勤務に着かれておられた頃ですが、他の将官とメニューは同じでしたが特別に官舎で調理された物が運ばれて来ました。

朝夕の食事をされる将校は約四十名程でしたが、お昼の時間には全将校略全員約二百名になりますので、一番忙しくそして一番気を使う時でした。私が此の勤務に着いてから初めて知った事ですがたかが給仕と馬鹿に出来ない事でした。
 
先ず朝昼晩の調理品が到着する前に其の日のメニューに応じて食器を配置します。此の食器は全部スシーム消毒が済ませてあります。添え菜の小鉢、小皿などを配る係り、其の後から添え菜を盛り付けて行きます。テーブルの上で盛り付けの出来ない料理は厨房で盛り付け其れをテーブルに運びます。

此の時が一番神経を使う時で、零してお膳を汚さない様、器の向きが違わない様にと注意が必要でした。ご飯は木製のお櫃が四人に一つの割合で配置されており、お給仕はセルフサービスになっていました。

お汁は着席した順番にお給仕しますが、お代わりは自由ですので中には阿呆の三杯汁をされる将校もあり、娑婆にいた時の十人十色の人間味丸出しを見せる絶好の舞台でした。そしてお給仕する私達にして見れば、美味しく食べて頂いている此の時が一番嬉しく感じる一時でした。
 
食堂への入室、着席も上級将校からの順番ではなく、勤務の都合時間の都合でバラバラでした。入室される時は入り口で一度立ち止まり、十五度の礼をされてから入室されます。入り口に並べられているお箸箱を取ってから着席されます。

服装は冬の陸軍第一種軍装、夏の第二種軍装で、帯刀はされていませんが拍車着きの黒光りする長靴の音をさせて歩いて来られ、入り口で拍車の音をさせ敬礼されてから入室されます。それが何とも格好良く凛々しく感じられた物でした。総司令官殿、若杉参謀殿の入室の折は全員起立でお迎えする慣わしになっておりました。

私が此処に勤務をしている間に二度程ですが正面の列の当番を受け持った事がありました。其の時総司令官殿が着席の時、椅子を少し下げてお迎えして着席を待ちして更に着席の位置に椅子を戻します。此のタイミングが大変でした。

若杉参謀殿の当番は一度もありませんでしたが、食事をされるお顔、正面の出入り口で立ち止まり軽く会釈をされるお顔が拝見出来たのも、此処高等食堂に勤務が出来たお陰で良い思い出を作る事が出来ました。
 
此の勤務に就いた最初の頃は全神経を使ってのお給仕ですが、
「有難う。」とか、
「ご苦労様。」
と、声を掛けて頂くとほーとして嬉しいものですが、中には虫の居所が悪かったのか、
「遅い。」
と、お叱りを受けます。そう言う方には一層の注意をしてお給仕する様に努めていました。

正面にお座りの将官級、上級佐官の職業軍人は、年齢も男盛りで私から比較して見ると父親の様な存在でした。そして下級佐官から尉官になりますと兄と言った感じで、当時十七歳の女子軍属から見るとこんな感じに写ったものでした。
 
私が総司令部に勤務して初めての仕事が此の高等官食堂でしたので、其の当時は、
「何で南京まで来て食堂の給仕をしなければならないのか。」
と、恨めしく思い悩んだものでしたが、改めて「見聞を広め徳器を成就する。」
良いチャンスに恵まれた事に感謝する様になりました。
 
支那派遣軍総司令部。中国大陸に戦陣を開いている陸軍の総元締めに勤務が出来て二百余の将校のトップが総司令官殿。宮様の若杉参謀殿を始め壮々たる将校を身近に拝見出来る日々は感激の日々でした。

勤務も時間が過ぎるにつれ、私の気持ちにも余裕が出来る様になりますと、若い将校は映画俳優の誰某に似ているとか、若い少尉殿は何々とニックネームをつけて皆で楽しんでいました。まーあ此れ位の事は若い女の子の悪戯とお許し頂けると思います。

そして十人十色の諺通り、日本全国から集まった人達ですからお国言葉も聞かれますし、部課に拠っても話題も違い、穏和な人、厳しい人、優しい人、せっかちな人とまちまちの集合団体でした。若い士官学校出身の将校は下の方に固まって席に付かれ、いとも賑やかに食事をされていました。

本日の配膳のお吸い物は、
「畏くも天皇陛下よりの下賜品の鴨である。」
と言う時でも、
「此れ本当に鴨かな、鶏の肉ではないかな。一羽や二羽では何処に入っているか判らない。」
と、笑わせるのも此の席の新米将校でした。
 
私達の食事は皆さんが済んだ後から、同じ席で同じ食事を頂いておりました。特別多く調理した物か、細部までは聞いた事はありませんでしたが、ご飯もお菜物も総司令部の将校と同じ物を充分に頂き、ひもじい事は一度もなく寧ろ好き嫌いのない様改造されて行きました。
 
そして此の高等官食堂に勤務期間の途中に、白いサロンエプロンと頭に白の レースの付いた被り物を付ける様に通達がありました。丁度映画に出て来る 大正時代のカフェーの女給さんスタイルでしたので、皆で猛反発したものです。

然し上官の命令では逆らえずブツブツ愚痴をこぼしながらも、糊を着けてピンピンにアイロンを掛けて着用していました。命令書を出した上司を恨みながら。
此の事は戦後日本に帰ってからも母にも姉にも悔しいので一度も話した事はありませんでした。

若杉参謀殿は南京会の会合にご出席になられた折お近くで親しく当時のお話をさせて頂きました。此れも支那派遣軍総司令部副官部主計室に勤務させて頂いたお陰と感謝しております。


若杉参謀(三笠宮殿下・前列左)と(南京会会合の折)
後列右から二人目の白い洋服姿が私








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