18 マラリアの病魔に襲われ、終戦を迎える

昭和二十年八月に入り、今まで一度も経験しなかった就寝休を経験して仕舞いました。マラリアの三日熱の発病です。四十度を越す猛烈な高熱に襲われ、全身がガタガタ震え出し布団を何枚もかけても全身の気だるさと震えが止まりませんでした。
 
此の時期女子宿舎に流行して仕舞い、後判明した事ですが陸軍病院は満員で、陸軍病院への入院は出来ず、女子宿舎の一部を隔離病棟に急拵えの病室に女子軍属七、八名が枕を並べて討ち死にして仕舞いました。マラリアの特効治療薬の「キニーネ」を白い丸薬を飲むと翌日は平熱に戻り、時間が経つと再度高熱に襲われ、此の繰り返しが二、三度続きやっと平熱が続く様になり、マラリアも退散してくれました。
 
仲良しの友が総司令部の炊事係りに頼んで、特別メニュウーの食事を運んでくれました。これは女子宿舎の食事より数段美味しい食事でした。此の友も過去に盲腸で陸軍病院に入院している時お見舞いに行くと、ベッドの上で陽気にはしゃいでいました。

私も一日で良いからのんびりとベッドのお世話になりたいと、良からぬ事を考えた時もありましたが、いざ私の番になり三、四日と時間も過ぎ、熱が出なくなると勤務に戻りたくて健康であった時を感謝、感謝と考えていました。
 
そんな環境とはお構いなしに戦況は悪化の一途を辿り等々運命の八月十五日を迎えて仕舞いました。勤務に就いた筈の友が帰って来ました。どうしてこんな時間に、雅か私のマラリアが伝染したかと、一瞬の不安が脳裏をかすめました。友の言葉が、
「大変な事になった。正午に天皇陛下の玉音放送があるから、正午に全員総司令部に集合せよ。」
と、言う事でした。

其の理由は日本の敗戦でした。無条件降伏です。信じられない、ガーンと頭を一発叩かれた様でした。何故ならば中国大陸の前線は部分的な負け戦はありましたが、其れも分隊、小隊単位の全滅も若くは撤退を余儀なくされた事があちらこちらに発生した様ですが、武器弾薬を敵の手に渡す事なく、概ね敵を圧迫して勝ち戦を続けていました。
「信じられない。」
と、私の返す言葉が此の様でした。
 
事実日本の本土の各都市は、米軍の空爆に合い、沖縄の最後の地上戦が終わり、南方軍の日本軍の玉砕の悲報が相次ぎ、広島、長崎が新型爆弾の洗礼を受けた後でした。此の様な差し迫った戦況など知る由もありません。それに中国大陸の戦線では苦戦を強いられる部隊もありましたが、私の知る限りの情報では 日本の無条件降伏など納得出来る事ではありませんでした。

王道楽土、五族協和の美名を旗印に、中国大陸に先陣を開き連戦連勝の国軍の総師たる総軍の女子軍属の名誉にかけてと、頭の中は走馬燈の様に廻り始めていました。兎も角こんな処で寝ている場合ではなく仕度を整え総司令部に出務しました。誤報であって欲しいと祈りながら・・・。
 
午前十時頃衛兵所の門を潜った時は着剣の立哨のみ。何時もの通りの状況で 緊迫した様子など微塵も感じられませんでした。主計事務室の中は何か落ち着かない雰囲気を総身に感じましたが、まだ百%信じている者はおりませんでした。そして職員は不安な気持ちを隠しきれずですが、多くを語らずと言う感じでした。
 
正午少し前、総司令官岡村大将以下全員緊張した面持ちで総司令部前の広場に整列を終らせました。東支那海を渡って来るラジオの電波はノイズに埋もれてはっきりとは聞き取れませんでした。初めて拝聴する大元帥陛下のお声は、「朕」とか「国民」とか「忍び難きを忍び」と言うあたりは何とか拝聴出来ましたが、全体の意味は不明でした。

何たる事か負けた。等々負けた。でも私の知る限りでは中国大陸の前線では負けてはいない。多少の出入りはあっても 八十%の前線は勝利している。何たる事か。敗者の遠吠えにも似た考えでした。各々事務室に戻り改めて敗戦の事実を噛み締めながら、放心状態で座っていました。直ぐにでも武装解除になるだろうと言うを聞きました。そして無条件降伏の真実でした。

「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。」
戦陣訓の一節です。降伏して捕虜になると言う事は軍人として一番恥ずかしい事、私は此の様に教育されて来ました。例え女子軍属と言えども、いざと言う時は自分の身の処し方は自分で行なわなければならない。そして出来ると信じていました。

もう生きて日本に帰れないかも知れない。身の処し方のチャンスを逃して捕虜になったらどうなる事か、誰も口には出さないが皆同じ気持ちであったと思います。私は不安な気持ちを落ち着け様と深呼吸をしたり、机の引き出しを整理したり、自分なりの努力はしていた心算でした。
 
ともかく事務室内の整理、身の回りの整理、例えどの様な事態になろうとも、
「立つ鳥跡を濁さず。」此の事務室に敵が来ても笑われない様にと機密書類の 焼却から始まり、身の回りの私物の手紙、毎日書いていた修養録等を薔薇の花の咲いている庭に大きな穴を掘り、其処で焼却しました。人知れず流す涙が頬を濡らしていました。
 
もう一般中国市民には日本軍の権限は通用しません。長年に渡る軍隊の行動に反発して、今こそと考える中国人がいても可笑しくありません。宿舎と総司令部の間も決して安心とは言えない事になりました。不幸にして直に中国軍の兵隊に銃剣を付き付けられ、前を向いて両手を上げて捕虜収容所行き、こんな事も考えていました。
 
昭和二十年八月十五日も暮れました。翌日になると中国軍が大挙押し寄せて来るだろう、其の時私達はとうなる事だろう、其の時私達はどんな扱いを受けるのだろう、色々な事を連想しながら夜遅くまで皆と話し合っていました。数日が過ぎ総司令部の中も整理が略済んでいました。私達軍属も平日と変わらず出務していました。依然として内部の帯刀本分者は帯刀のまま、衛兵所は着剣の歩哨が勤務していました。
 
後日日本に帰還してから聞いた事ですが、八月十五日私達が終戦の勅語の放送を拝聴した直後、JOAKの海外向けの短波放送で海外の同胞向けに大屋さんと言う日本放送協会の職員が、
「どうか強く、逞しく生き続けて勇敢でいて頂きたい。」
と約一時間に渡り、私達同胞を励まして頂いた事を知りました。
 
又、当時私達がお仕えしていた岡村総司令官は、終戦に強硬に反対する司令官の烙印を押された方でした。八月十七日には内地から朝香大将宮が岡村大将を説得の為、南京に来られました。此の時既に岡村大将の腹の内は、
「天皇の大御心に添い奉る。」
の決心が固まっていた様です。
 
更に、陸士時代からの中国研究の利を活かし「和平直後に於ける対支要綱」を自ら起草して、陸士の教官時代教え子であった支那空陸司令官可応欽に其の要綱を提示し同司令官と肝胆合い照らす仲間となり、私達が捕虜の扱いを受ける事なく無事南京から引揚げ、上海に集結する事ができました。

総司令部からの引揚げ開始迄、二ヶ月程ありましたが南京市内は平穏無事で、両軍のトラブルもなく私達は宿舎と総司令部の間を往復して残務に就く事が 出来ました。そして帰国の出来るのを指折り数えて待つ毎日となりました。八月十五日以降抱いていた悲壮な心も次第に薄れ、生きて祖国の土が踏める 安堵感が生まれて来たのも此の頃です。











19 幻の野戦郵便貯金と狸の葉っぱの軍票

敗戦と言う事の惨めさを十二分に味わう日々の或る日、私名義の貯金通帳を始めて受け取りました。手持ちの所持金の一部を除き、現金は全部預金する事になりました。預け入れた金額も当時の金額としては相当な金額と記憶しています。長い行列をして野戦郵便局の窓口に並び、預金を終らせる事が出来ました。

だが此の時預金した金額は狸の葉っぱとなって中国大陸の空に消えて仕舞いました。戦後内地で払い戻しを受ける事の出来た金額は、昭和二十年八月十五日以前の金額でした。私の三年有余の汗の結晶は祖国に帰還した後、生活の足しにするには程遠い金額でした。

確か預金通帳の預け入れ金額は二万円を超える金額です。昭和二十一年頃に払い戻す事が可能であったなら相当の親孝行が出来た筈です。敗戦の惨めさはこんな処にも現れて来ました。
 
私が総司令部に勤務していた当時、毎月の給料は幾らであったかは毎月の 預金額が証明してくれるので、預金通帳を見れば正確にまでは行かずとも或る程度までは予測出来ると思います。

結婚して横浜に来てから八月十五日以前の僅かでしたが私の汗と涙の染み付いた貴重な預金を払い戻して頂きました。 其のとき軍事郵便預金通帳は没収されて仕舞いました。

戦後大分時間が経ってから当時の通帳は返還すると、内閣の告示が出ましたので、横浜地方貯金局に返還の手続きを済ませました。返して貰える日を一日千秋の思いで待っています。私が南京で勤務に就いていた当時は、足の先から頭の天辺まで官給品で食費も光熱費も不要でしたが、幾らお給料を頂いて日本の母に幾ら送金したかとんと不明でしたが、当時の記録として知りたい事の一つです。


軍票











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