20 別離の支那派遣軍総司令部

昭和十八年の初頭、王道楽土、五族協和の旗印の下十七歳の青春真っ最中の乙女が日本を遠く離れた中国大陸の南京で軍務に就くとは夢にも考えていませんでした。

だが現実に昭和二十年九月二十三日現在此処に女子軍属の皆さん二百名と共に、大和民族が今まで一度も経験した事のない事実、それは皇軍が外国の首都を占領した事実、それと敗戦と言う汚名を着て在南京支那派遣軍総司令部を去ろうとしている二つの重大な事実です。此処にいる仲間達は私を含めてこんな惨めな別れを迎える事は夢にも考えていなかったと思います。

喜怒哀楽を織り交ぜた勤務の中で、陸軍記念日の表彰式、勤務の中の役務、当番、友との別れ、楽しかったハイキング等々、出発の軍用バスを待つ間長い様で短かった三年間の思い出が走馬灯の様に思い出され、知らず々の内に私の頬に一条の涙が流れていました。敗戦と言う大和民族が一度も経験した事のない状態で敗残の道を歩む事になったのです。

南京の秋空は天高く良いお天気、昭和二十年九月二十三日、愈々三年有余勤務した総司令部との別れの時が来ました。支那派遣軍総司令部勤務の女子軍属二百名、夏用の従軍服に貴重な私物の荷物を手製のリックに詰め帰国の準備を整え、総司令部の正門前に整列最後の訓示を受け、軍用バスに分乗して中山北路を北上、南京駅に集結を終らせました。
 
日本の敗戦から一ヶ月以上も過ぎているのにも関らず中国側からは何の指示も命令も聞いていないのが不思議でなりません。私達の乗ったバスに投石位はと覚悟はしていましたが、其の様な不祥事は一件も起きませんでした。総軍の  上層部は其の時、重慶軍との間にどの様な取引を行ったのか総司令官、総参謀長、総参謀副長は大変なご苦労をされたと思います。

一軍属の私には解る筈もありませんでしたが、帰国後色々の参考資料を見て 如何に在支皇軍二百万を無事日本に帰国させるか頭を抱えていたかの事実を知りましたが、其の時点では知る由もなく不思議な事実と考えていました。
 
中国側の妨害も迫害も受けず、無事甫項の渡船場近くの南京駅から汽車の乗り、上海の陸戦隊本部の花園部隊の宿舎に入る事が出来ました。何れにしても惨めな引揚げをする羽目になった事は事実です。支那派遣軍総司令部を離れたのは昭和二十年九月二十三日でした。












21 上海の捕虜収容所(上海陸戦隊花園部隊の宿舎)


此処まで事態が進んで来ると今度は人間の生の欲望が頭を落ち上げ、何とか此処まで来たのだから無事日本に帰還出来る事を願う様になりました。私達が此れから臨時に収容される上海陸戦隊花園部隊の家族宿舎は、私達を待ち受けて敗戦の混乱から守ってくれていました。此の宿舎は元花園部隊の高級幹部の家族宿舎の跡で、此処の住人は既に引揚げ船の都合で引揚げた跡の様でした。
 
ともかく此処は畳の敷かれた部屋で、南京の私達の宿舎より環境の整った処でした。此処で一番印象に残った事は入浴の時間制限でした。今までは例え戦地と言えども入浴までは時間制限付きなど一度も経験せず、比較的のんびりと 入浴しておりました。

此処では十五分で服を脱ぎ入浴、そして身体を洗い、時には髪も洗衣服を着て出るのです。それでも風呂に入れる事は嬉しい限りです。そして此処の浴場は日本の銭湯を小型にした雰囲気で、此処に居住していた方々の憩いの場所の様な感じでした。
 
ともかく感傷に浸っている場合ではありません。皆と工夫して次に入る人は 何時でも服が脱げる体制で待ち、時間と共に湯船に飛び込み体を洗い髪を洗い、十月が過ぎ十一月に入った季節でも時間に追われて寒さを感じる余裕もありませんでした。此処で頂いた食事の内容、どんな待遇で生活していたかと記憶が途絶えています。

酷い状態であればきっと覚えていると思いますので、良い方に解釈しています。此処にお世話になるのも十五日程と聞いていますが、その十五日も瞬く間に過ぎて行きました。此処までは例え敗戦の憂き目に会ったとは言え、未だ日本軍部の保護下にあったので私達には未だ差し迫った緊迫感もなく、至極平穏な日々が過ぎて行きました。

此処から出て次の収容所に行きますと、中国軍の管理下に入るので、どの様な待遇が待ち受けているか皆目見当が付きませんでした。最悪の場合には当分の間捕虜生活を強いられ、使役に借り出される事になるかも知れません。其の様な情報は一切聞かされず、其の日々を一喜一憂して過ごしていました。







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