22 呉淞鎮の捕虜収容所

南京から引揚げて上海に着いた私達は此処で二週間すごし約十キロ離れた呉淞鎮の終結地に移動する事になりました。此処からは完全な捕虜収容所と言う事になりますが、捕虜収容所の名称は私達が勝手に付けた名称で、中国側は其の様な名称は使用していませんでした。私達軍人軍属には捕虜、俘虜の名称は使わず、「徒手官兵・としゅかんへい。武装を解いた将兵、軍属」の名称を使っていた様です。

いずれにしても此れから私達の行く所は名称こそ違っても内容は捕虜収容所でした。今迄は一人々の使用する空間は、満ち足りる事はなくとも不便を感じる事なく過ごして来ました。それが上海から郊外の呉淞鎮にある此の収容所に移動して来てから、始めて捕虜収容所の実感を身に沁みて味合う事になりました。勝てば官軍負ければ賊軍の味合いを感じたのも此処に来てからでした。

此処、呉淞鎮はかって日本軍が敵前上陸を敢行した揚子江下流の町と聞いていました。少しでも早く帰国船に乗って日本に帰れる事の出来るのは嬉しい事ですが、何時まで此処に滞在させられるのか皆目見当が付かず、不安な思いが何時も脳裏から離れませんでした。
 
私達の収容される建物は古ぼけた木造建築の平屋建てのお粗末な建物でした。板張りの八畳程で小さな窓の付いた部屋が十部屋続いていました。部屋の中は両側に寝床が二段あり、床板は隙間のある巣の子板の構造になっていました。

二段目の床に上がるには垂直に出来た梯子を上る様になっており、其の広さは私達が六人程並んで寝る様になっていて、寝返りをすると隣の領域に侵入して仕舞う広さでした。上段も下段も人間一人立つ事の出来ない狭いものでした。少しでも多くの人員が収容出来る様にとの苦肉の策の様でした。
 
雨露が凌げて身を横たえる事が出来ましたので敗者の惨めさを十二分に味合う事になりました。何時の世であれ戦は勝たなければならない、負ければ此の様な惨めさが待っているのだと言う事を・・・。南京、上海、呉淞鎮と無事に此処まで来る事の出来た私達は恵まれた引揚者の部類でした。弾丸の飛び交う奥地の戦線から引揚げて来られた従軍看護婦の方と思いますが、身分は一般の女子引揚者となっておられました。

此の方々は頭を丸坊主戦闘帽を被って、女子と言う事が解らない様に工夫された様でした。女の命の次に大事な長い黒髪を切らなければいけない程の処から大変な苦労をされて来られた方々でした。
 
私達も頭上の飛行機から解らない様にと帽子を被る様に指示があり、手製のつばの付いた帽子を被る事にしました。今になって思えば全く滑稽な話で、此の時期になっては女子であれ男子であれ全く関係のない話でした。

中国側が何か企んでいたとすれば既に其のチャンスは幾らでもあった筈です。何れにしても奥地から引揚げて来られた方々よりも私達の方が数段恵まれた 引揚方でした。
 
収容所の中庭に大きな井戸がありました。四角い大きな木製の井戸枠が古さを物語っており、俄かに作った物ではない様でした。私達捕虜には貴重な生活用水です。飯盒一杯の水で歯を磨き、顔を洗い時には手足も洗いました。ですが此の井戸水は伝染病を恐れ飲料水は使用する事は致しませんでした。

此の頃はもう飯盒一つの食器でけ、お皿、茶碗、お箸等もう遠い夢の話となりました。それでも口に入る物は不味くてどうしようもない事はなく、恵まれた方だったと思います。戦時の最前線では多分味合う事の出来ない捕虜生活だったと思います。

そして平穏な日が帰国まで続きました。収容所とは言えば監視兵となるのですが、此処では中国兵の姿は一人も見た事はありませんでした。かなり広範囲からの将兵、女子軍属、従軍看護婦が前線から引揚げて来ていましたが何のトラブルもなく、只の一度も中国兵の取調べもありませんでした。総司令部と中国側との間でどんな取引があったのか、下層部の私達には不明でしたがともかく有難い事でした。

約十人程の単位で班を編成して各班毎に使役に出たり、帰国までの体力の保持に注意しておりました。此の時最年少でしたが三年の 従軍では古参と言う事もあり、班長の指名を受けていました。

其の頃、矢張り一番知りたい事は此れから帰る日本の国内事情でした。手を上げて無条件降伏をしたのは本土の方ですから想像以上の亊だろうと誰しもが考えておりました。同僚の中には空爆で家を焼かれ家族の消息も解らない人もありました。私は此の様な心配はありませんでしたが、暫くの間音信不通でしたから、ある種の不安は拭い去る事は出来ませんでした。

八月十五日から今まで我が身に起きた事、そして考えていた事を考慮すれば、此れからも可成の事にも耐えられると、今迄にない別な力が身に付いたと感じていました。












23 呉淞鎮の慰安劇場

こんな捕虜生活を過ごしている中で忘れる事の出来ない楽しい一日がありました。慰安会です。此の様な所で此の時期でと余り期待はしていませんでしたが、其れは誤りで軍隊と言う処は如何に多種多様で、一芸に秀でた人の集りであるかと言う事を改めて考えさせられました。

舞台で使用する大道具、小道具、丁髷の鬘から三味線、衣装等々何処で調達して来たのか不思議な程でした。其れに加え芸達者な人々「杵屋何々。」と云う肩書きの付いた三味線の名手、浪花節、時代劇、女性の日本舞踊等々、此の時期此れだけの芸人、舞台道具などの手配が出来た物と感心すると同時に楽しい一日を過ごさせて頂きました。此の中に「上原謙の従兄弟」と言う人もおられたと言う事が記憶に残っています。
 
此の時代は上原謙、長谷川一夫、田中絹代の時代でした。演じられる芝居も赤城の子守唄、九段の母等軍事色の濃い物ばかりでした。女子軍属の中にも踊りの名取さんもおられ、こんな得意芸がある方を羨まし思ったものです。短期間の中にこんな素晴らしい劇団が編成されていたのか、片隅に生活しておりながら存知あげぬ事でした。
 
不自由な日頃の一時を、芸に秀で名演技を見せてくれた皆さんに拍手喝采を 送りながら感謝していました。多分此の中には前線に派遣され、敗戦を迎えた軍事慰問団の皆さんもおられ、此の演芸会の主役を勤められたと思います。








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